物事をあるがままに受け入れ楽しく生きるピダハン

つい最近、テレビでピダハンを知った。アマゾンの奥地に暮らす少数民族だ。なんだかとても心に引っかかったので、さっそく図書館で「ピダハン/言語本能を超える文化と世界観」ダニエル・L・エヴァレット著(みすず書房)を借りて読んだ。この少数民族はいろんな意味で興味深い。ピダハンの文化には右/左、数、色、過去/未来という概念も名前も存在しない。抽象概念もなく、神も、創世神話もない。常に「今ここ」を生き、信じるのは「事実(目に見えるもの、自分で経験したもの)」だけだ。

右/左ではなく、(川の)上流の方、下流の方などと表現する。色は、血のような(赤)、空のような(青)、熟れていない実のような(緑)などという具合だ。数の概念がないので、少ない、多い、一部、全部などで表す。これらの言葉からは、自然の中に自分という人間が存在している(つながっている)イメージがうかぶ。

そして、ピダハンはどんなことにも笑う。自分の不幸さえも笑いの種にする。家が風雨で吹き飛ばされても、魚が獲れなくても、当の本人が誰よりも大きな声で笑う。厳しいアマゾンという環境の中、この幸福感はどこから来るのか。著者は、”環境が挑んでくるあらゆる事態を切り抜けていく自分の能力を信じ切っていて、何が来ようと楽しむことができるのではないだろうか。生活が楽なわけではなく、なんであれ上手に対処ができるのだ。”と語っている。

ではどうやって対処しているのか、これがまたシンプルである。物事(死や災難。浮気や離婚もある。)をあるがままに受け入れる。そこには抵抗がなく、完全降伏(サレンダー)なのだ。ピダハンが信じるのは、環境の産物や生き物、目に見えるもの、自分で経験した事実だ。罪の概念はないし、自分たちを変える(どこかの文化や文明を取り入れる、外国語を学ぶ、宗教に入信するなど)必要性も感じていない。だから、将来を心配して不安になることも、自分を取り巻く環境や人間関係に悩んだり、鬱になることもない。

私たちの悩みにはほとんどと言っていいほどこの抵抗(物事への否定)がある。このままの自分ではいけない。(物事や人は)こうあるべきだ。将来どうやって生きていけばいいのか不安。抵抗は自分の投影(物事の見方等)を探すひとつのキーだ。この抵抗が大きければ大きいほど苦しい。抵抗しているものを手放すことは簡単ではないが、セッション等をとおして自分を見ていくことで、少しずつほどけていく。気がついたら、あまり気にならなくなっていたこともある。自分の抵抗を見ることがつらいことでもあるが、奥底にある想いや気持ちに触れると愛おしくもなる。そういうセッションをひとつでも多くできたらいいなと思う。

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